2008/05/12

新しき町に、新しき城──首里、那覇新都心

2008.4.26
【沖縄県】

 園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)


 先日の斎場御嶽(せーふぁーうたき)にあった、世界遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の案内板に、訪れたことのない「園比屋武御嶽」の記述を見つけ、是非行ってみようと調べてみました。
 するとそれは首里城のそれも守礼の門のすぐ先にあるとのこと。これまでまるっきり無視して歩いていました。
 そこには石門があり、御嶽とされる背後にある森への入り口・礼拝所との位置づけとされています。
 国王が城を出る際の旅の安全や、聞得大君(きこえのおおきみ:最高位の神女)の就任時などに最初に礼拝する場所であり、国家の聖地であったそうです。
 その森には、最初の琉球統一王である第一尚氏ゆかりの伊平屋島の神「田の上のソノヒヤブ」を祀ってあるそうです。「ソノヒヤブ」とは? 調べてみましたがちょっと見つかりませんでした。
 ──古いことなので資料が残ってないのかも知れませんが、どうも伊平屋島に関する記述には不確かな事柄が多い気がします。
 まさしく政祭一致の国家体制であったわけで、そのバランスの取り方が難しかったのではないかと思われますが、民衆も自然への畏怖を持っていたこの地であるから、まとめ上げることができたのではないかと思えます。
 国土の狭い単一民族国家のような集団においては、有効だったのではないでしょうか。


 首里城正殿


 ここが修復されてからは2度目(?)と思われますが、いつも「キレイに飾ってもらえて、良かったさー」と思ってしまいます。
 最初に訪れたのが80年代初めで、守礼の門くらいしかなかったとの記憶があります。奧には(工事中だったかの)琉球大学の校舎が残されていたと思います(当時琉球大学は、首里城にあるとの認識でしたから)。
 戦時中の首里城には日本軍の司令部があったため、跡形もなく破壊されその跡地には米国民政府により琉球大学が設立されたので、城跡の遺構も埋め立てられたそうです。
 そんな状態からよくもこんな姿にまで復活したものだと、いつも感心するたびに思い浮かぶ感想です。
 ここは中も素晴らしいのですが遠くからこの城を望むと、山の上に連なる帯状の石垣が、龍が横たわっているかのように見えて、実に見事な光景です。
 まだ修復中の部分が残されているので、それが完了したときには、全貌を見渡せる場所を探して観に行ってみたいと思っています。


 円覚寺跡


 鎌倉の円覚寺を模して1494年に建立されたそうで、戦後まで現存したのは橋だけで、門と池は復元されたそうです。
 何度も来ているのですが今回は違います。
 「禅寺らしく、門の内側に池があってそこに橋が架かっている。うーん、まさに禅寺の様式だ」
 「写真そのままやないけ!」
 「いや、禅寺の門の内側はこのような様式になっているんだよ」
 鎌倉の円覚寺にも、横須賀線の線路を渡ったところに池があって橋が架かっているではありませんか。
 京都で学んだ知識とは、結局それだけなんですがね……

 昔から中国との関係が深い琉球ですから、そんなお寺があってしかるべきと思います。
 それにしても日本の寺を模するとは、日本からの影響があったのかも知れませんが、中国の思想に関して琉球は興味を持って無かったのでは? と思ってしまいます。
 ──確かにわたしも琉球は「ニライカナイ」でいいと思います。
 夏のこの地で坐禅する絵というのは、見ているこちらも汗が出てきそうですし、などと口にしたら「心頭滅却すれば火も亦た涼し、喝!」と警策が振り下ろされそうです……
 第二尚氏(伊是名島出の尚円王の系統)の菩提寺だったそうです。


 弁財天堂

 円覚寺から道を挟んで隣接している円鑑池(えんかんち)に浮かぶ弁財天堂で、お祈りをしている方がいました。
 端の方にいた所在なげなおじさんは、一緒に来たのに祈るのをためらっている子どものような仕草に見えて、可愛いんだか、だらしないんだか、と勝手な想像をしていました。
 ですが、人がザワザワするこういう公共の観光地である場でも祈ることができる精神性って、たくましいと思わずにはいられません。
 そこへ渡る橋があるのですが、観光客は渡ってもみなすぐに戻ってきてしまうようなオーラが漂っていたようです。
 わたしは立ち寄らずに、遠くから横顔を振り返ったのですが、その方は涙をぬぐっていました。
 これもまさしく神様のお告げのひとつではないかと思います。
 人目を気にせず、涙を流しながら祈り続けるその行為は、神様との一体感をより強く感じさせる効果があると共に、心の中にたまっている苦悩を晴らして、欲求不満を解消してくれるのでは、と思います。
 だからやはり、神に仕えるのは女の性に限られているのではないでしょうか。男は、端の方で照れているだけの存在なのですから……
 写真の掲載を迷ったのですが、上記のことに触れたくて掲載させてもらいました。


 玉陵(たまうどぅん)


 ここは、琉球国王のお墓になります──第二尚氏(伊是名島出の尚円王)の系統。
 遺体を自然腐敗(?)させ骨になるまで安置しておく部屋と、その骨を洗骨してから納める部屋があるそうです。
 琉球らしい、死後も現世のそばにあることを実践していたような施設です。
 首里城の隣にあったため、戦争で粉々に破壊されたそうです。
 下写真の石組みの色の違いに、修復の経緯が見て取れると思います。
 と、書きながら写真を眺めていたら、カビの生え方の違いかも、と思えてきました……



 金城町

 この石畳は国王の別邸である識名園への道だそうで、主要道として整備された「真珠道(まだまみち:真珠のように美しい道)」の一部になるそうです。
 この石畳は、階段にした方がいいのではと思えるようなかなりの急斜面に築かれていて、所々に斜面からの湧水や樋川(ふぃじゃー:岩盤内の水脈から樋(とい)で水を引いている)があり、そこが水場となり御嶽の場となっています。
 やはりこの日は祈りを捧げるお日柄らしく、上写真の隣にある金城大樋川(かなぐすくうふぃじゃー)の水場でも数人がお祈りしていました(ここの写真は遠慮しました)。

 NHKドラマ「ちゅらさん」で使われた那覇の家が近くにありますが、続編はもうやらないのだろうか?
 平良とみさん(おばあ)が健在なうちに1本でも多く見たいと願っておるのですが……


 上写真は壁に埋め込まれた「石敢當(いしがんどう:道の突き当たりに設置される魔よけ)」。
 ここは文字が判明できませんが、必ずといって石敢當の文字が描かれています(京都にもあります)。
 魔物は文字を読んで普通の石と区別するのでしょうか?
 それとも文字の読める人間に対してのまじないなのでしょうか?


 内金城御嶽(うちかねぐすくうたき)

 首里城のそばにありながら戦禍を免れた「アカギ」の大木群と、その根元にたたずむ御嶽は、それだけで貴重な存在として敬われたことと思われます。
 アカギの大木群の推定樹齢は200〜300年とのことなので、もし戦争で焼かれることがなければ、この一帯の森はどんな空気をたたえていたのだろうか? 首里にもキジムナーがいたかも知れないのでは、との想像をしていました。
 この御嶽は広くないのですが、礼拝所がいくつも設置されてことからすると、かなり重要視された御嶽ではないかと思われます。
 やはり大きな木の下には様々な霊が住み着く、と考えられたであろうことを、このアカギの大木から感じさせられました。
 『となりのトトロ』の鎮守の森の大木のように、まずは子どもがそれをかぎつけるのかも知れません。
 子どもの頃って、蚊がいっぱいいるのを知りながら何でこんな所を半袖短パンで走り回れたんだろうか。
 この歳になると刺されるのがいやで、長居ができませんもの……


 沖縄県立博物館・美術館


 ここは以前、米軍の牧港住宅地区だった土地が返還され、再開発された地域にあたります。
 ゆいレール(モノレール)のおもろまち駅から徒歩10分と言いますから、那覇の市街地の一部と言っていい場所柄です。
 表題の博物館・美術館や、オフィスビル、ショッピングセンター、高校、公園と、那覇市が作りたいと思っていたものを全部作ったのではないか、とも思えるので「那覇新都心」との呼称にもうなずけます。
 旅行に出るとローカルニュースを良く見るようになるので、テレビ関連の話題も増えるのですが、テレビでやっていた「国際通りの空洞化」(観光客向けになってしまい、地元民が来てくれない)の現状が理解できました。
 車社会の沖縄ですから、駐車場完備のショッピングセンターに人が流れるのは当然で(ただし、駐車場の入り口は大渋滞)、特に若い人たちなどはその便利さに慣れてしまうと、もう市場などには足を運ばなくなってしまう傾向にあると思われます。
 石垣島の商店街もそうですが、みんな車で行けるショッピングセンターに流れていってしまい、アーケードのある商店街が寂れる空洞化が起きてしまう、という心配は確かにあると思います。
 わたしの意見ですが、那覇はこれまで狭い場所に集中しすぎていたとも思えるので、少し町の再構築をした方が良いのでは、とも思っています。
 それには、様々な意見があると思いますが、これまでにない大きな外敵(資本)が入りやすくなったことは確かで、それを防ぐことは難しいと思われます。
 それに対抗と言うか、すみ分けることを念頭に町の再構築を進めて「沖縄の銀座」と言われた賑わいを、島民が楽しめる形で取り戻してもらいたいと思っています。

 以前は首里城近くにあった博物館ですが、那覇新都心に移転・新装開店です。
 それにしてもこの造形は見事としか言いようがありません(ほれぼれとします)。
 グスク(城)をモチーフに、小さな四角い窓は石垣を、入り口の空間は石の門をストレートに想起させて、見事です!
 この建物が時を経るにつれ、前出の御嶽や城跡の石垣のような貫禄を備えていってくれたらと思うと、もうワクワクしてきてしまいます。
 本当に、この建物には惚れちゃいました。

 室内中の展示も、これまでの「こんな暗い歴史があったんです」というような被害者意識を払拭して「これからの沖縄を考えるために、歴史を学びましょう」というスタンスが感じられ、とても前向きな明るいビジョンを持っていると感心させられ、もっとゆっくり見ていたいと思わされました。

 ──上記の「被害者意識」などと書いたら怒られるかも知れませんが、以前の博物館の展示物にこそ勉強になったと思われるものが数多くあったと思っています。心ない人が見たら、押し入れから出してきたガラクタに思えるものかも知れませんが、わたしには目にしたことのない米国民政府統治下における紙幣や切手や様々な資料であり、教科書にも書かれていない「誰も教えてくれない事実」に触れることができた貴重な体験だったと思います。それゆえ、もう少し沖縄の事を「自分から知ろうとするべき」ではないか、と考えたのだと思っています。

 そんな明るくない過去の資料が削られてしまったので、悪い言い方ですが「歴史の闇の部分は消し去られていく」ように感じられたのも事実です。
 過去より未来が大切である、との判断をしたのですから、外野がそれをとやかく言うものでもないかと思われますが、また別の機会を作って資料として閲覧できるようにしてもらいたいと思います。是非!


 今回の沖縄については、これで終了です。
 思いがあれこれあるもので、非常に長いレポートになりました(下書きは倍以上あるかと思います)。
 今回の訪問に際しては勉強が足らず、過去の記憶をたよりに書いた面が強いと反省しています。
 またの機会には、もう少し現状に即したことが書けたらと思います。
 最後までお付き合いいただきありがとうございました。

 08年4月 沖縄 【完】

 さて「ganbare ore」で活動を始めねば……

2008/05/11

「ganbare ore」──久高島

2008.4.25
【沖縄県】

 クボー御嶽

 この島は変わらない──ここでは、良いこととしてとらえています。
 この島には「久高島土地憲章」という「土地は島のもの」として私有を認めない、という制度が定められています。そのため、外部資本の流入や土地の売却などができないため、奇妙な開発など行われずに昔ながらの風土が保たれています。
 小さな離島において、その考え方はある面正しいと思います。
 土地を個人所有とせず、その上で生産されたモノだけを流通させて社会の血液とするモデルというものは、村社会の原初的な姿であったと思われます。
 しかしこの島には流通させるモノなどはないので、その慣習は島を存続させるための共同生活を守るために営まれてきた、知恵の結晶なのかも知れません。
 日本への返還前までは、島を守るための内部統制に必要だったと思われる「古い因習」と表されていたものが、近ごろでは外敵(資本)から身を守る役割を果たしているところが皮肉と言えるかも知れません。
 橋の架かった古宇利島を今回のぞいてみると「リゾート開発反対」の看板などが目につきました。離島とはいえ一枚岩ではない島ではそんな混乱が生じることは、容易に想像がつきます。
 国有地もあるため交流館やら新しい港などが作られてる箇所もありますが、それにしても「久高島という世界」は依然として保たれていると思います。


 カベール岬への道

 この場に立ったなら誰でも「この先には何が?」と前進しますよね。
 ところが、ここから引き返したヤツがいます……
 前回訪問時はあちこち寄り道し過ぎたもので、この光景を目にしたところでタイムアップとなってしまい「待ってろよ、あばよ!」と、小走りで港に駆け戻った覚えがあります。
 そんな痛いほどの学習効果によって、今回は5時間半(ほとんど1日がかり)滞在しました。わたし的には予定を満足させてくれるちょうどいい長さでした。
 しかーし、もっと遊び上手のプロのような一行がいて、人もほとんど来ないだろうと思われるような砂浜で「丸一日滞在します」というような装備で陣取っていました。きっと朝から来ていたんだろうと思われます。
 おかげで一カ所プライベートビーチとしての独占ができませんでした。
 今度は負けねぇぞ!

 「この道を進む」というものが自分の中にも見えてくることを期待しつつ、「行くぞ!」と気合いをいれて歩み始めます。
 前々回は自転車だったのですが、ここはやはり自分の足で切り開いていかなければ!
 でも、ここは一本道。戻ってこなければなりません……

 個人版「日本の道」に選びたい道です。
 映画『豚の報い』で初めて久高島を意識したのも、この道だったことを思い出しました。


 カベール岬


 その道の先にあるカベール岬にて、その先にあるであろう「ニライカナイ」を望む図です。
 沖縄に伝わる「ニライカナイ」とは、神様の棲む世界であり、生命の源であり作物や漁の豊かさを与えてくれ、死者の魂がたどり着く世界であり、その魂が神に生まれ変わる世界のことをいいます。
 要するに万能神が願いを叶えてくれる世界であり、理想郷としてあこがれ慕う場所という概念をも包括したものです(と理解しています)。
 われわれ大和でいうところの、見えない世界をひっくるめて表現する「あの世」に近いと思われます(なんて言ったら怒られるかも)。
 「あの世」は天上にあるイメージですが、「ニライカナイ」は海の果てにあるとされています。島国なら当然と思われますが、日本でも太古の昔は海の果てを見つめていたそうです。
 わたしは「あの世」には「はい、それまでよ!」のイメージが強いのですが、「ニライカナイ」にはもっと明るい「希望」や「楽園」、根拠は持ってませんが「転生」といった「死という事象」を苦しみから解放してくれるようなイメージを持っています。
 ──オイオイ、行っちゃうのかよ! って感じですね。
 いえいえ、それはいまこの瞬間も「隣り合わせにある」ことを認識せよ、ということなんだと思います。
 だから、清明祭(シーミー)に墓前で大騒ぎするのではないでしょうか。

 カベール岬とは、琉球国造りの神であるアマミノキヨが降り立った地であるとされています。
 集落の反対側の一本道の果てにある岬ですから、ここを象徴としたい心理はよく理解できます。

 で、何が見えたかと言うと、
 大きな船からヘリコプターが飛び立って陸に向かっていくなぁ。
 あぁ、与勝半島(海中道路の付け根)のホワイトビーチ(米軍の軍港)に入る軍艦なんだろうなぁ。
 オイオイ、何を見てるんだろうねぇ……

 右写真は一本道から少し戻った三叉路で、角には大きなガジュマルの木があり、その下に長いすが置いてあります。
 以前は、島の方が木陰で休みながら「ゆんたく」(雑談)していたのでしょうが、畑は荒れています。集落から離れた畑まで割り当てるだけの人がいなくなっているのだと思われます。
 「伝統を守ってきた制度」が賞賛を受ける近ごろですが、現実にはそれでは島を存続できないという問題も抱えています。
 外部からお金が入ってこないので、島には仕事はありません。若者は島を出て行ってしまいますし、残った老人が減ってしまえば畑はどんどん荒れていきます。
 島の子どもはとても元気で、遠くからでも「こんにちはー!」と大きな声であいさつをしてくるので、こちらも大声で叫んで返事をします。前回訪問時の印象と変わらないということは、島の教育姿勢が一貫しているのでしょう。
 しかし仮に子どもが増えたとしても、結局は働きに出て行ってしまうことになります……

 でも、希望もあります。
 海ブドウの養殖をしている方がいました。
 「地方発送します」の看板を見つけたのですが昼時らしく人影が無く、後からFAXで注文しました。
 無事に届いたのですが、注文者と送り先が違い代引きができず、振込先の連絡を待っていたのですが1週間たっても何もありません。
 結局こちらから再度FAXすると夜に「○○ですぐぁー」「オレ、もう酔っちゃってさぁ」という電話……
 お願いした時は「はい、わかりましたー」と張り切って、次の日には発送してくれたと思うのですが、後の集金にだらしないところが、まさにウチナンチュ(沖縄人)の男だねぇ! と思ってしまいます。
 ちょっと、指導に行ってやろうか? とも思わされましたが、こういう人に頑張ってもらわないと、島は元気になっていきません。
 ──携帯のメールアドレスの中に「ganbare ore」の文字列がありました。かなり厳しいのかも知れません……
 「ファイト!」と、声援を送ることしかできないのですが……


 伊敷浜


 上写真は海を望む礼拝所(うがんじょ)です。
 この伊敷浜には昔「黄金の壺」が流れ着いたと伝えられています。
 その中には7種類の穀物の種子が入っており、それより琉球の農耕が始まったとされているそうです。
 ここまで話しが具体的になってくると、権力者たちの説教か? と感じてしまう男は、やはり神に仕えることはできないのでしょう(神に仕えるのは女の性に限られています)。
 ヤシの実が流れ着いた、くらいなら付き合えるんですが……(決してバカになどしていません。自分の未熟さを嘆いているのです)

 写真に島を取り巻くリーフが見えると思いますが、この浜では離れたリーフで砕ける波音が聞こえてきます。
 その遠い波音の距離感が、周囲の空間に奥行きや深みを感じさせてくれて、目を閉じると、音量控えめのサラウンドの子守唄のようで、何度かウトウトしました。
 リーフで貝などを採っていた方が戻ってきます。傘をかぶり、腰にびくを下げ、手には竿のように見える棒を持っていて、まるで浦島太郎のようで、格好いいんだわ。
 やはり、こういう土地柄だから伝説が生まれるんだろうなぁと、この点には納得しました。


 外間殿(ふかまでん)

 この一画には「天」「太陽」「月」「竜宮」「国造り」「植物」「健康」の神が祀られており、様々な祭事の祭場となります。
 他に何か必要なものはあるでしょうか?
 仮に何かを答えたら「それはあなたの欲です」と言われそうな気がします。

 奇祭として有名な「イザイホー」については、手書きによる島の案内図にも記載されておらず、もう行われることはない、もしくは触れられたくない、との意志にも感じられたので、言及しません。
 興味のある方は調べてみてください。
 霊感に通じる感性を持ち合わせていないわたくしですが、今回は、島で最も大切にされていて男子禁制のクボー御嶽にも立ち入りませんでしたし、少しは畏怖の念を心に刻めたのではないか、と思っております。

 生命や生命力というものは純粋なものであることを、再認識させてもらえたと思う島の滞在でした。
 しかし、純粋なだけでは島の存続も難しい状況にあることは確かで、自立はしていくのはかなり厳い道のりと思われます。
 仮に、文化保存の観点などからの援助を受けながら存続できたとしても、その本質が失われてしまってはその意義自体が失われます。
 島の選択を見守りたいと思います。

 そして、オレも「ganbare ore」です!

2008/05/10

未来への遺産──南部戦跡

2008.4.24
【沖縄県】

 斎場御嶽(せーふぁーうたき)

 海沿いの幹線道路から脇道にはいり、商売っけのある建物が増えたなぁと思いながらほどなく到着。「あらまあ、キレイになちゃって……」
 きちんと整備されていて、駐車場も広くなり管理棟を建てて入場料を徴収しています。
 思わず受付の人に「変わりましたねぇ」と声を掛けていました。
 そりゃねぇ世界遺産ですから、管理はちゃんとすべきです。
 調べてみると、世界遺産に登録されたのが2000年で、有料化されたのが07年夏とのことなので、遅かったくらいかも知れません。
 右写真は、琉球国造りの神であるアマミノキヨが降り立ったとされる久高島を遥拝する「三庫理(さんぐーい)」です。(右写真:木陰の合間の久高島、分かります?)

 以前は閑散とした域内でもお祈りをしている方がいて、入れなかったりしたものですが(入り込んで見学させてもらったこともあります)、この日はそのような光景は見られませんでした。お客さんも増えちゃったしねぇ。
 ──静かな御嶽に祈りの声が響く情景が心に染みて、とても強く印象に残っているので何度も足を運んでしまうのだと思います。
 この場所は琉球(あえてそう書きます)で最も大切にされる御嶽で、何も知らない者が訪れたとしても、そこに漂う尋常ではない空気を感じ取ることが出来ると思われます。
 どこの御嶽でも聖地とされる空気を感じることはできると思いますが、ここの礼拝所では具体的な祈りの対象が、岩や島として現前するので、とっつきやすいのではと思います。
 それは、最も大切にされる「琉球の始祖」を拝む御嶽なので、多くの人に認められ人の心をまとめる必要からある程度の具現化が求められ、このようなの象徴的な礼拝所が造られたとも考えられますし、もしくは、起源そのままの原初的な姿を残しているためかも知れません。
 域内にある、砲弾で空いた穴に雨水が溜まった池のような存在も、そのままの状態で「保存」というより「あるがまま」にしておこうとする精神性には、聖域としての気高さや、祈りを捧げる人々の誇りが感じられる気がして、いつも圧倒される思いです。


 平和祈念公園


 修学旅行と思われる一行が平和祈念資料館をバックに記念撮影をしています。
 「何で資料館がバックなんだろうか?」と考えたとき、そう言えば自分たちも広島の「原爆資料館」をバックにした写真が残されていることに気付かされます。
 それは、きっと忘れないように、思い出させたいために、キレイな海の景色などではではない「資料館」の建物をバックに焼き付けたかったのであろうことを、この歳になって思い知らされました。
 この手の公共施設の喫煙所は入り口付近にしかないので一服していると、修学旅行の一団がやってきて「1時間半後にこの場所集合」の声と共に資料館に入っていきます。
 大体の連中は30分もしないうちに出てきて、ベンチでごろ寝してたりするわけですから(さすがに一服ふかしてるヤツはいませんが)詳しく見学しちゃいないと思われます。
 そんな連中でも、心のどこかに引っ掛かっていたり、何十年後かに記念写真を見たときによみがえるかも知れないわけですから、「資料館を見る」という経験をさせたり、記念写真にそれを焼き付ける等の、教育というか、指導・アドバイスは大切なことと思われます。
 ──わたしは数年前、広島を再訪しました。

 この平和祈念公園は、日本返還前から琉球政府立公園として整備されていて、「平和の礎」建設計画の背景は分かりませんが、沖縄県主導で作られたモニュメントということになります。そこへ毎年慰霊の日に日本国首相が献花にやって来ます。
 この構図は、沖縄の県民感情に配慮した日本政府の「思いやり」として哀悼の意を表する場を設定するための「装置」でしかありません。

 彼ら修学旅行生にそこまで理解させようとしても無理かも知れませんが、将来何かのきっかけで考えることがあった時、(変ぼうする可能性はあるにせよ)「奇妙な国、日本」を知るためには格好の題材となるのではないでしょうか。
 世界遺産などではなく、日本の「未来への遺産」として語り継いで、これからも考えていく必要があると思われます。


 ひめゆりの塔

 この施設が訴えてくる切なさは、具体的な人の名前と残された写真が生々しさを感じさせる点にあると思われます。
 資料が残されていない人の分まで、その体験を訴え続けなければいけないという使命感を背負っている訳ですから、ただでさえ死にきれない思いを持っていたであろうのに、なおのこと魂が休まらないのではないか、と思われてなりません。
 ここでは女子高生の一団が見学していました。
 同年代と思われる写真を見た彼女らに「どうするよ?」と聞いてみても、答えにならないのではと思われます。
 「おじさんだって、君たちをそんな目に遭わせたくない」とは思うのですが……
 何が出来るのだろうか? ではなくて、出来ることから始めないといけないでしょう。
 われわれには、経験云々ということは語れないわけですから、先に知った者が知らない者に対して、知りうることの多くを可能なだけ伝えることしかできません。
 もし可能であれば、自分がどこで何を知り、どう感じて、どう考えているのかを伝えることが必要であるし、高校生に対しては先輩であるわたしたちの義務なのではないか、と思います。
 そして、その祈りが伝わるように……


 ここは「ひめゆり同窓会」(財団法人)という組織が運営している施設だそうなので、門前の道路の反対側に上写真のような土産物店が並んでいても文句を言われないようです(昔からの経緯があるのかも知れませんが)。
 それにしても、右側のTシャツを持ってるおばちゃんの声がひときわ元気で、ひめゆりの塔から出てきたとは思えない騒々しさが印象に残りました。
 ──いや、生命力にあふれている、と表現すべきではないだろうか……


 喜屋武(きゃん)岬


 喜屋武と書いて「きゃん」と読みます。
 さて問題「八丈島と言えば?」 「八丈島のきょん!」 はい正解。
 ──それにしても古いよねぇ。「意味分かんないしー」という方はネットで調べてください。すぐに出てきます。
 ここは沖縄本島最南端の岬で、那覇空港に着陸する飛行機が上空を通過していきます。
 人が少ないせいで目立つのかも知れませんが、この岬で見かける人たちはちょっと気味悪い感じです。
 ワゴン車で軽食・喫茶を提供しているお店の兄ちゃんが変に愛想良く近寄ってきたり、三脚を立ててひとりで写真撮ってるくせに人の後を付いてくる兄ちゃんがいたり……
 わたしも好きでよく行きますからあまり言えないのですが、大きめの島の最果ての地ってどん詰まりですから、たどり着いたはいいけどこの先どうしようか? って感じの人がたむろする吹きだまり的な場になってしまい、奇妙な人を見かけることがままあります。
 仲間だと思われたくないのでそそくさとこの場を後にしましたが、飛行機が飛んでいるあたりが雰囲気を損ねている気がします。


 美々ビーチ いとまん


 かなり以前から、那覇空港着陸直前の右下に見えた「またこんな埋め立てしちゃって」と思っていた大規模工事が終わり、その先端部に人工海浜「美々ビーチ いとまん」(下写真、上はマリーナ)ができていました。
 近ごろはやりの、総合マリンレジャー施設とでもいうのでしょうか、入場料(駐車料)500円取られます。
 観光バスを十数台も連ねてやってきた高校生と思われる団体のマリンスポーツ大会が開かれていました。
 ビーチバレー(2面?)とビーチサッカーが同時にできる広い砂浜があり、昼食はバーベキューをしたらしく鉄板の残骸が山になっていました。
 その様子を見る限りは、何百人もが参加するイベントにはこれくらいの規模がないと運営はできないと思えるので、有意義な施設なのだろうと思われます。

 これまで糸満という町に立ち寄ったことがなかったので、今回は是非にと思っていました。
 ──いつもここを通る時は「飛行機に間に合わない!」と焦っている場合が多くて……
 糸満という町は昔から漁業が盛んなところで、かなり遠くの海にまで出かけて漁をしていたらしく、訪れた漁師のことを「糸満」と呼んでいたそうです。
 子どもの多い世帯などで口減らしなどのために、漁業での修行をさせるという名目で、子どもを売りに出す「糸満売り」ということも多かったほど、漁師の生活は豊かだったそうです。
 その港は、そんな名声(?)から想像するものよりはるかに小さなものでした。
 昔は大きな船など無いのでこれで十分だったのでしょうが、大きな港が欲しくなれば埋め立てをするのは、港町の常ではあります。
 埋め立て地では大型のドックが稼働しています。
 久米島の帰りにフェリーで渡名喜(となき)島に寄るつもりが「ドック中」で便数が減ったため断念したのですが、そのフェリーがここで検査していました。
 こんなところで会ってもなぁ……


 隣接する豊崎という埋め立て地には「アウトレットモール あしびなー(神前にある男女の交流場)」という、若者の関心が集まるであろうショッピングモールがあります。
 いまどきはどこも一緒と思ってしまうのですが、沖縄では北谷よりもオシャレに思えたので、流行るのも納得ではあります。
 そこから那覇空港方面には臨海部分を横断していく橋のバイパスができ、10分程度で空港まで行ける立地にあります。
 沖縄観光の必需品であるレンタカー会社も、ここに大きな事務所(駐車場)を建ててお客さんをマイクロバスで運んでいます。
 高速道路の空港線も、もうすぐ近くまで開通しそうな状況からすると、那覇を取り巻く状況も大きく変わるかも知れません。

2008/05/08

基地問題果てしなく……──辺野古、楚辺

2008.4.23
【沖縄県】

 辺野古(キャンプシュワブ)


 95年に起きた米兵による少女集団暴行事件を発端に、一気に県民感情が爆発した米軍基地撤廃要求運動の沈静化を図るための提案である、96年の「沖縄に関する特別行動委員会(SACO)」に納得した県民ですが、米軍普天間基地の移設先として提案されたのが「キャンプシュワブの拡張による辺野古沖への新滑走路建設」であったため、県民の間でも動揺が走りました。
 それから12年。現在も継続中の座り込みの反対運動、計画変更等々の様々な動きがありましたが、ひとつの方向性として06年の名護市長選挙でただひとり移設受け入れに前向きな候補が選ばれました。これで基地建設が一気に進むとは思えませんが、着実に外堀が埋められてきたように思われます。
 実際現地でも、上写真の周辺は変化ありませんが、テントを張って座り込んでいる堤防までの道路が舗装されたり、漁港周辺の施設等が整備されたりしています。
 そんな行政に対して「ご機嫌取りか?」なんて問うた時、「将来への準備です」などの答えは聞きたくもありません……
 また、国道から集落への入り口の目につきやすそうな場所には「国際海洋環境情報センター」なる施設が作られています。
 深海底の掘削調査をしている、あの地球深部探査船「ちきゅう」を有する独立行政法人の関連施設だそうです。
 言いたいことは分かりますよね、政府はいくらお金が掛かろうとも、ここ辺野古に新しい米軍基地を作ろうとしている、ということです。
 確かに、機能を分散・整理・縮小しても、基地をひとつ閉鎖することは難しいことなのかも知れません。
 沖縄県民は、二度と戦争をしない国である日本に返還されたことを、喜んでいたと思われます。
 それだけに、その国が新しい基地を沖縄の地に作ろうとすることに、集団自決の記述問題等と同等以上に「また裏切られた」との心情が強まることも確かだと思われます。
 そんな、先祖への顔向けができないと感じる人が多い土地柄で強行しようとする神経が理解できません。


 潟原(かたばる)


 上写真は、沖縄の砂浜です。
 車で走っていてこの湾内全体の砂の色が赤いことに驚き、車を止めました。その場所には何とあったか忘れましたが、英語で駐車禁止とあります。大体想像はついたのですが調べてみると、まさに米軍の水陸両用車が出入りする場所なんだそうです。その車両が陸地の赤土をばらまいて回ったのと、その訓練施設から遠慮無く垂れ流された赤土が湾内に広がってしまっています。
 ──海沿いには国道も通っているので、そんな車両が通るときには車の通行を遮断して大名行列みたいに国道を渡っていくのだと思われます。 
 これはやめさせられることであるし、やめさせなければいけません。
 場所は貸してやっても、復元できない環境破壊まで許す者などひとりたりともいやしません。
 日本政府はこの赤く染まった広大な砂浜の砂を、われわれが納めている税金の「思いやり予算」から「赤砂の撤去費用」などと支出しようとでも考えているのでしょうか?
 現在でも本島の砂浜は色味が付いているのに「沖縄の砂浜は赤いんだよ!」などと遊びに来る人などいると思われますか?
 それこそ、基地だけのために存在する島になってしまいます。


 楚辺(そべ)通信所跡地


 「像の檻(おり)」を覚えておられますでしょうか? 
 「自分の土地になぜ立ち入ることができないんだ!」の声を。
 米軍施設使用の賃借契約を地主が拒否し、県知事も土地強制使用の代理署名を拒否したため、国による不法占拠状態となり、混乱を避けるために立ち入りを制限する柵が設けられた時分に訪れたことがあります。柵の外に報道関係者用(?)の駐車場があって、警備の人が立っていたこと覚えています。
 06年12月に日本に返還され、昨年の6月にさら地にされたそうです。
 到着した時の第一声は「ウォー、真っさら。これが平和ってもんだよな」というものでした。
 上写真のモノがぽつんと立っているので近寄ってみると「ゴルフボールは家に持ち帰らずみんなで使いましょう」の看板とゴルフボールがあります。
 基地の跡地で「みんなでゴルフ」とは素晴らしい!
 ここを基地反対のモデル地にすべきだ!
 などと感慨にふけって、ぐるーっと歩き回っておりました。
 すると観光バスから社会見学の高校生の群れが降り立ち、ボランティアの方の説明が始まったので一緒に聞いていました。
 その中に「北部に最新のレーダー施設が出来たので、不要となったこの土地が返還されました」との説明があり、そう言えば聞いたことあると、これまでの歓喜のムードが一転しました。
 「そんなに返して欲しいならどうぞ、別の場所に最新の施設を作りましたから。そのかわり、もう賃貸料を払う義務はありませんから」そんな政府の声が聞こえた気がしました。
 ゴルフボールは、そんな捨て台詞に対するせめてもの抵抗というものだったのかも知れません。
 最新のレーダー施設はキャンプ・ハンセン(金武町周辺)内に建設されたそうです。


 イヤ、何がまいったかって、日本政府の「基地を作ろうとする姿勢・意欲」に対してです。いたちごっこしていても、こっちが先に逝ってしまうのではないかと思うと、地域闘争や戦いの相続というものが理解できるところです。
 親の恨みではありませんが、意志というものは次の世代に受け継ぐことはできますが、いつまで戦いが続くのかという泥沼化にもなりかねません。
 現在の状況を変えるためには、やはり政権を一度転覆(変えて)させて、何か政治家の言葉のようですが「民意を問うてみる」というような荒療治でもしないと変わりようがない、という気がしてきます。
 それで何も変わらなければ仕方あるまいと、あきらめるしかないとの気もします……
 「戦争と平和」の問題とは「近所付き合い」と同じで、永遠の命題であることは確かであるとは思うのですが……(何かトーンダウンしてない?)
 自分ひとりでは(沖縄だけでは)決められない、ことに他なりませんから。


 読谷(よみたん)村役場


 さて、気を取り直して!
 ここは基地問題に毅然と立ち向かった読谷村の村役場です。
 上写真の左側の道路は旧米軍補助飛行場の滑走路で、返還された飛行場すぐ脇の土地に村役場(写真奧オレンジの屋根)を建てて、全面返還を迫ったと聞きます。
 米軍が最初に本島上陸した地点となるこの地域は、ほとんどの土地を接収されてしまったため、自治体の体をなさなかったそうで、村の自治は土地を取り戻すことから始まったという境遇です(像の檻も読谷村)。
 現在ようやく主要幹線道路である国道58号の整備が始まっています(こっちが本道になるのか?)。
 土地を取り戻せば、いかようにも活用の方法があるのですから、有効利用を皆さん考えてください。
 ──隣の北谷(ちゃたん)アメリカンビレッジに対抗しなくていいですから……
 しかし一部に「For Rent」なる看板の出された新築のマンションが建ってたりします。米兵向けの賃貸のようです。
 安直なヤツは放っておいて、村としての舵取りに期待しています。


 座喜味城跡


 この日は天気があまりり良くなかったのと、被写体もパッとしないこともあり、花の写真を載せてみましたがこれもあまり明るいものではありませんね。
 ですが今回、城壁から見渡す風景から「像の檻」が消えていることだけは、しかと見届けました。


 嘉手納基地


 嘉手納基地への進入路付近になります(奧は北谷町)。
 大雨の予報のせいか、着陸してくる戦闘機はありません。
 しかし時折、爆発音か? というような轟音が基地内から響いてきます。周囲の人は平然としていますが、これで普通の生活をしろと言う方がおかしいと思うような環境です。
 前日ニュースで、防衛施設庁の施設が嘉手納町役場隣(基地の脇)に移転してきた映像を見ました。
 町でのインタビューの反応も仕方のない歓迎ムードで、基地の恒久化は困るが町の活性化は歓迎するという現実的なものでした。
 ここでは基地との共存はやむなし、との空気が主流のようなので周囲が口を出すものではないと思われます。
 ──本心は、決してそうではないことは理解しております。


 コザ


 コザ(沖縄市)も完全に基地依存の町ですが、こちらの落ち込みぶりは目も当てられない状況です。
 胡屋(ごや)の交差点付近に立派なアーケードが迷路のようになっている商店街があるのですが、まるでゴーストタウンという感じで、昼間も人通りが少なく時折見かけるのはお年寄りばかりです。
 ひとつ北側にある、以前は大変賑わったライブハウス(紫、コンディショングリーンはここでしょう?)や、照屋林助(てるりん)さんの小屋などのあったパークアベニューも、昼間は惨敗で、夜もネオンはチラホラ程度という寂しい状況です。
 ──この上米兵が何か問題を起こして、外出禁止令が出されてしまえばそれで開店休業。
 07年夏オープンの、音楽で町おこしを目指した期待の「コザミュージックタウン」(上写真)を楽しみにしていたのですが、これもテナントが埋まっておらず撃沈。さて、どーしたらいいのだろうか?
 この町だけ「子どもを増やして活気を取り戻そう!」なんて言えるものでもないのですが……

 でも、子どもはいるようで、以下に沖縄子どもの国で仕事をしている知り合いについての近況報告を。

 沖縄子どもの国「ヨナグニウマ ふれあい広場」の「ひめまる」さん(昔の職場の仲間)は元気でした。
 おじゃまして、少し馬に乗せてもらおうと思っていたのですが、夕方から土砂降りの雨で残念……
 与那国島から単身+馬3頭で沖縄本島に乗り込んで、3年になるのかな?
 ようやく軌道に乗り始めてきたとのことで「ボチボチ国民年金払い込まないと、期限切れちゃう……」と、社会生活にも復帰できそうな雰囲気です。
 以前の項で触れた伊江島の方からの相談などだけではなく、今後の事業展開などへの意欲にも満ちていて、語る目や表情が輝いていてカッコイイんですよ!
 渡ってからもう7年だそうですが、ようやく芽吹き始めたようなので求人があったら連絡してもらうよう、お願いしてきました……
 沖縄へお出かけの際は声を掛けてあげてください。
 顔つきは精悍(せいかん)になって変わりましたけど、一目で分かりますから。

空港が必要な理由──伊平屋島

2008.4.22
【沖縄県】

 我喜屋(がきや)ダム


 フェリーターミナルの喫茶で少し遅い昼食を食べていたら、カウンターで50代くらいのおばちゃん(おばあではない)が仲間と話していたのですが「それは言語ですか?」と聞きたくなるような音声を口から発しているのに驚かされました。
 言葉の区切りなどは無く、音(おん)の語尾を伸ばして次の音がつながっていく、早口の発声練習のような、中国語のような「音」で会話していました。久しぶりに「異国に来たか?」と感じさせられた、言葉とは思えない会話でした。

 上写真は05年に完成したダムです。離島ですから水の労苦は絶えなかったと思われるので、島民の悲願だったことなのでしょうが、宿のおばちゃんによると「また人口が減り始めている」のだそうです。
 大きな公共工事が続いたので若者がUターンで戻り始め、村営の新しい2階建ての集合住宅をいくつも作ったのですが、仕事が無くなるとともにまた出ていく人間の方が多くなってしまった、とのことです。
 「道路も、橋(後出の野甫大橋)も、ダムも、作る物はつくってしまったから、もう仕事はない」のだそうです。
 港にある大きな円筒形の構造物に「ムーンライトマラソン」のイラストが描かれています。そのマラソン大会は、夕方から夜にかけて開かれるので日焼けの心配がないと、女性に人気があるそうです。
 その建物は何か聞いてみると「あれは、空港建設を当て込んで作ったセメント工場。まだ着工まで7〜8年はかかる」のだそうです。それまでの間、他に仕事がなければ若者達が出ていってしまうのも仕方ないと思われます。
 しかし、最初からそんな公共工事を当てにした若者のUターン誘致を考えること自体、間違っているのではないかと思われますが、島民にしてみれば「千載一遇のチャンス」に思えたのかも知れません。
 「残る工事は空港だけ」では、その先も同じことの繰り返しになるのではないでしょうか?
 ムーンライトマラソンに参加する女性向けに考案して大変受けたという「黒糖キャラメルパウンドケーキ」のように、島民の力で工夫していく必要があると思います。
 伊平屋島の人たちを責めるつもりはないのですが、Uターンで戻ってきた若者たちが生活できず、再び去ってしまうような地域の自治体は、自治能力なしと見られても仕方ないと思われます。
 その上「空港がなければ活性化は不可能」だなんて本当に考えているようでは、いくら税金をつぎ込んでも染み込んだらそれで村も終わり、ということも考えられると思います。
 とても失礼な言い方かも知れませんが、もう少し自分たちで工夫された方がいいのではないかと思います。
 ──本項を書き終えて、次項の村の合併について調べていたら、伊平屋の村長は「財政がパンクするまで、身を削って頑張るしかない」との覚悟があるそうですが、破綻後の生活がどうなるのか村民に伝わっているのでしょうか? あまりにも無責任と思えます。
 「てるしの(太陽に満ちあふれる)の島」と言われているそうですが、ひょっとするとお金を持った「てるしのの神様」を待っているのでしょうか。


 神アサギ──島尻集落


 ここ伊平屋島と昨年訪れた伊是名島は近い距離にあり、地理的には兄弟島といえるかも知れません。しかし、島に渡るフェリーは共に村営なので沖縄本島の運天(うんてん)港と各島を往復するだけで、お互いの島を経由してくれません(旅行者にとってはスンゲェ不便なんですけど!)。仲が良くないのだろうか?
 ──平成の市町村合併で、伊是名村・伊平屋村の合併案は伊是名島民の住民投票によって否決されたそうです。伊是名は「単独でも頑張ろう!」と士気が高まったそうですが、伊平屋ではあきらめムードとなったようです。

 歴史的には面白いことに、ふたつの島からともに琉球王が生まれています。
 三山時代(北山:今帰仁、中山:首里、南山:糸満)と言われる1400年代に、その勢力を制圧して琉球最初の統一王朝を確立した、第一尚氏王朝の尚巴志(しょうはっし)の祖先の屋蔵大主(やぐらうふしゅ)は伊平屋島出身であるらしく、またその第一尚氏王朝の後継者の没後に国王となったのが伊是名島出身である尚円王(しょうえんおう。昨年の伊是名島で尚円王劇の練習に励んでいた宿の娘さん元気かなぁ? 可愛かったのよ)で、どちらも同名のため第二尚氏王朝と呼ばれています。
 上述のように、伊是名島は尚円王自身の出身地であることから、銅像をはじめゆかりのモノを多く見ることができたのですが、伊平屋島では国王との関連を示すモノを見ることは出来ませんでした。
 上写真は「神アサギ」と言い、首里からくる祝女の休憩所で、顔を見られないように屋根が低く作られているとのことです。
 同様のものは伊是名島にも残っており、どちらの島も王朝を、また琉球王朝もどちらの島をも大切に扱っていたのだと思われます。
 またこの島の伝説として、神武天皇の祖母は伊平屋島(海宮(あまみ))出身との言い伝えもあり、昔から日本本土とのパイプがあったとも考えられているようです。


 フィーフィーガマ


 上写真は野甫(のほ)島の裏側にある小島で「フィーフィーガマ」というキジムナー(子どもの妖怪)が棲んでいたと言われる洞窟があります(場所は特定できませんでした)。
 沖縄の多くの土地で、キジムナーは木に棲む精と言われていますが、ここでは洞窟を住みかにしているそうです。
 ──上述の大和の神話なんかより、こっちの妖怪の民話の方が楽しいと感じてしまいます。
 この地への入口から出てくる車を見かけたので、やぶの道に入り込んでみると、小島との間の浅瀬でやぐらを組んでボーリング調査をしていました。こんな所にも何か建造物を作ろうとしているようです。
 いまどき、この島の洞窟には族議員かなんか住んでいるんじゃないの? などと思ってしまいます。


 野甫大橋


 上写真は、05年に掛け替えられた野甫大橋からの景色です。お金とか、仕事とか野暮な話しは抜きにして、ここからの海の眺めは見事でした。
 やはり自然の眺めは! と見回してみると、コンクリートで固められていないのはこのあたりだけかも……


 クマヤ洞窟


 この「クマヤ」って名前どこかで耳にしたことありませんか?
 天の岩戸の伝説で天照大神が隠れた洞窟の名前です(籠穴:クマヤ)。
 やっぱりこの島は琉球にあるのに、大和寄りであるのが変だよね。
 お互いは別に敵対関係ではないにしても、大和側に従順になった理由が過去のどこかの時代に存在しているような気がします。
 それがいけないとは思いませんが、何があったのか知りたいと思ったのですが、資料が残ってないのか表に出せないのか……

 また岩石の話しです。ここも伊江島の城山同様のチャートという岩石のすき間に、水や風や砂によって浸食されてできた洞窟だそうです。沖縄で多く見られる、石灰岩が水などの浸食受けてできた鍾乳洞とは形成過程が違います、ということを伝えたかったわけです。

 大和の伝説などお構いなしに、地元の方はこの中でお祈りをしています。
 「こっちの方が先だよ!」とでもいうかのようなバイタリティに感じいりました……
 ──この入り口は結構狭くて、お年寄りには危ないように思えますが、へっちゃらなようです。


 田名(だな)池


 田名地区周辺には水田があり、その水瓶として田名池が地図に掲載されています。
 その池を探しに行ってみると、泥水がうっすらと張っている程度の水たまりでした。上写真はその水源地と思える湧水池です。
 山は結構険しい島ですがこの程度の湧水しかなく、水理的には貧しいという印象を受けました。
 地上に湧き出ることなく、地中や海に流れてしまっているのではないかと思われ「ダムの必要性」について納得した次第です。

 空港の必要性について改めて考えてみましたが、確かに県庁所在地である那覇からの移動時間が最もかかるのは、この伊平屋島かと思われます(運天港まで2時間強?+船で80分)。波照間島でも、石垣まで飛行機で50分、高速船で60分(飛行機はまだあるようで25分)ですから、言い分も理解できます。
 ですが、山を削って作った慶良間空港や、波照間空港への空路も、あの離島の強い味方であった「琉球エアコミューター」が撤退している近ごろですから、新たな空路設定は大変な困難が待ち受けていると思われます。そこに村の出資を求められることは容易に想像できます。
 その引き替えに、地理的な不便さへの援助と思われる、人口1,500人以下の島では恵まれている診療所と歯医者の完備が見直されることもあり得ると思います。
 ──宿のおばちゃんの「両方とも家族の住居が付いている」の言葉を、わたしは自慢と受け止めたのですが……
 そこまでの代償を払っても「島の将来性にかける」のであれば、現時点から島をあげてフルスロットルで商品開発や観光誘致に全力で取り組むべきではないか、と思われます。
 そんな姿勢が伝わらなければ「空港が必要な理由」も理解されないのではないでしょうか。

2008/05/06

緑の島──伊江島、美ら海水族館、備瀬

2008.4.21
【沖縄県】

 阿良御嶽(あらうたき)


 伊江島は、美ら海水族館の正面に見える尖った山が印象に残る島です。
 これだけ特徴的な山ですから、きっと山を祀った御嶽があるだろうと探していました。ここはまさに城山(ぐすくやま。通称:タッチュー。この音は禅寺を囲んで建立される「塔頭(たっちゅう)寺院」に通じると、ネットで目にしましたがホント?)を仰ぎ祈る御嶽です。昔はこの辺りに港があったそうで、島を出入りする時にここでお祈りをしたそうです。
 もしわたしがここの島民だったとしたら、島の出入りには必ずここで祈りたくなると思われる、この島のありようを見事に表した造形だと思います。
 ──ここは山に対する祈りの場と思われるかも知れませんが、城山を象徴とした島全体、祈る自分を取り巻く世界全体に対して祈りを捧げる場なのだと思います(後日にまた記述します)。

 この山は、その形状から火山の噴火活動から生まれたかに思われますが、どうも違うようです。
 伊江村ホームページによると「島より7千年も古く、世界でも珍しいオフスクレープ現象(古い岩盤が新らしい岩盤に潜りこむ中で一部が剥がれて新しい岩盤の上に乗る現象)によって形づくられました」とあります。
 これでは何のこっちゃ? ですよね。
 おそらく、城山の岩はチャートという深海底に堆積した有孔虫を起源とする岩石とのことなので、それが固結した状態でプレート運動などによって海溝まで運ばれて沈み込む時、潜り込まずに巨大な岩片として取り残されて、未固結の新しい地層を突き抜けて上に顔を出した状態で島になった、のではないかと思われますが…… ちがったらゴメンナサイ。


 ニャティヤ洞窟


 ここは戦争中、防空壕として多くの人を収容したことから「千人洞(せんにんがま)」と呼ばれるほど広い洞窟です。
 そんな呼び方も伝えていく必要があるとは思いますが、中に入ると息を潜めているかのような霊気が感じられる御嶽でもあるので、説明はきちんとしなければと思います(多くのガマと呼ばれる洞窟も同様の経緯を経ていると思われます)。
 女性が持ち上げると子宝に恵まれるという「力石」が陸側の壁面に向かって安置されていて、海側の岩に向かって祭壇が設けられています。その点について調べてみたのですが、これ以上見つかりませんでした。
 おそらく、命を育む島に向かっての子孫繁栄の祈りと、命の糧(恵み)を与えてくれる海と、生命の源とされる「ニライカナイ:海の彼方にあるとされる楽土(詳しくは後日)」への祈りの場なのだと思われます。
 いずれにしてもこの洞窟は、島民にとってはかけがえのない場所に違いないと思われます。


 伊江島灯台


 島内には時々英語の道路標識があったりしますが、思ったより威圧感なく静かに米軍施設が陣取っています(島面積の35%を占めているとのこと)。
 ここには戦争当時に日本軍の滑走路があったので(それも勝手に作られたのでしょうが)、攻撃の重要目標とされたおかげで徹底的な攻撃を受け、戦後は全島完全に米軍基地にされたと聞きます。その後も相当ひどい目に遭わされたと……
 ──現在も繰り返される米兵の事件に対して、これも訴え続けていかなければいけないのですが、彼らの辛い過去は取り戻せるものではありません。
 そんな経緯ですから、上写真の演習場と下写真の補助飛行場が残されていて当たり前、というような離島です(沖縄本島以外の離島で米軍の大規模な施設があるのはこの島だけと思われます。島の面積も広いですし)。
 ──次回以降でも触れますが、実質的に手を下しているのは日本政府であり、それも「思いやり予算」というわれわれの税金から拠出されているわけですから、これを「国防費」ととらえるかも含めてわたしたちには意見を言う権利があります。


 伊江島に話しを戻します。前回訪れたとき(1泊したのに雨降りで何も見られなかった)「たばこ畑」が広がっていたとの印象が残っています、
 その時も、米軍基地の維持に対する補償として、栽培に適さない土壌の土地改良(石の掘り出し、土の入れ替え等)に加えて、たばこ栽培の認可を与えたのではないか、と思っていました。
 わたしの意見ですが、伊江島にとってはその「取引き」(表現は悪いかも知れませんが)によって、現在の「緑の島」を作ったわけですから、成功だったのではないかと思われます。
 この先の未来は、島民自身が考えていく必要があるわけですが、そんな試みも花開きはじめたようです(次の項)。
 ──上写真の米軍補助飛行場には以前「ハリアー」が飛来したこともあるそうですが、今は民間の道路が滑走路を横断していたりして、ほとんど使われていないようです。もし返還されたなら妙な建築物などは作らず、緑や色とりどりの畑にすることで、人々が遊びに来られるような一画にしてもらいたいと願っております。


 リリーフィールド


 ここが島民の力で作り出された伊江島の新名所になります。
 前日から始まった「ゆり祭り」の様子がニュース映像で流れており、神戸からこのために来たなどのコメントもあったりと、盛り上がりを見せていて楽しみにしておりました。
 実際、フェリーで車を運ぼうと考えていたら「満車です」と断られたり、島でレンタカーを借りるのも「予約で一杯です」等(何とか借りられましたが)、観光バスも来ているし、「平坦な島」のうたい文句に騙されてレンタサイクルを押している人も結構見かけましたし「本当に盛り上がってるなぁ」と、少したじろぐ程でした。
 肝心のゆりの花ですが、まだ3分咲き程度で時期尚早という印象です。
 ここリリーフィールドは人工的に造園された「ゆり園」で、畑のような畝に沿ってゆりの株が整列しているので「丹精こめて育てたゆりを見てください」と言われているようで、わたしはかなりシラケてしまいました(育てた方に文句を言うものではありませんので、ご容赦下さい)。
 これはわたしの好みとイメージの問題と思うのですが、頭の中には宮古島の東平安名崎に自生(だと思う)して咲き乱れているゆりの花があったので、花壇のゆりには目もくれずに場外の岩場に自生していると思われる花の写真を撮ってきました(そこだけ聞くとすごく失礼なヤツだよね)。
 まあ、この島でも宮古島を目指しているのかも知れませんし、遊歩道などを埋め尽くして一面が「ゆりの丘」になったらとても素晴らしいだろうと思うので、今後の健闘に期待しております。
 でも、これだけの話題作りをして盛り上げて人を呼んでいるのですから、現時点でも大成功なのではないかと思います。
 「さぁ、次なる島おこしは何に着手しようか?」との気合いが聞こえてきそうで、頼もしい次第です。
 ──次回以降に登場すると思いますが「ヨナグニウマ ふれあい広場」の「ひめまる」さんが、伊江島での馬の飼育法について相談を受けたそうです。


 城山


 シンボルである城山の周りはなだらかな土地が広がっていて(決して平坦ではない)、そんな畑では作物たち(たばこだと思っているのですが、違ってたらご指摘下さい)が、ヘリコプターが降りてくる空に向かって新緑の葉を広げています。
 土地も豊かにしてもらったことですし、米軍を追い出して「平和を勝ち取った島」となれば人気が集まるんじゃないかなぁ。
 そんなモデル島になれたとしたら、とても有意義だし苦しめられた先人たちも喜んでくれるのでは、と思うのですが……


 美ら海水族館


 フジとの再会です!
 ご存知の方もいらっしゃると思いますが、彼女は病気で尾びれを失い(人間の足に相当するのではないか)泳ぐ意欲を失いかけているところを、飼育係や合成ゴム会社の人たちの奮闘によって開発された人工尾びれを付けて、再びジャンプができるようになったイルカで、映画にもなりました。
 午後のお昼寝の時間(なんてあるのか?)だったのか、動きが少々緩慢な気がしました。説明で「フジが飼育されはじめて30年になる」と聞き心配になって調べてみると「最高齢は50歳以上」とあったので、健康であればまだ大丈夫とひと安心。
 隣のプールでショーが始まり音楽や笛の音が聞こえてくると、こちらのプールにいるイルカたちも急に元気に泳ぎ出し、ジャンプしたりします。これはエサが欲しいとのアピールなんだろうと、素人目にも分かるところが可愛いと思ってしまいます。
 ずっとフジを注目していることに気付いてくれたのか「ちょっと構ってやろうか」と、近くで顔を出してくれるようになったと、わたしは思っています。
 この日は人工尾びれを付けており、小さなジャンプを見せてくれました。
(下写真はプール横の窓からの絵で、ガラスの反射が写り込んでいます)
 どうか、お元気で! また会いに来ます。


 しかし、美ら海水族館の人気はもの凄いことになっていて、日曜には高速道路も渋滞してるし、楽しみにしていた大水槽前のベンチも満員で腰掛けられませんでした(みんな通になってきている感じ)。
 オープンから6年目を迎えてすっかり人気スポットとなり、自称の広報ボランティア活動も役目を終えたと思うところです……


 備瀬

 美ら海水族館を出て名護の反対方面に向かうとすぐ、備瀬の集落があり「備瀬のフクギ並木」として見事な町並みが残されています。
 ──久米島の「チュラ福木」と同じ木ですが、地元の表記に倣いました。
 フクギとは垣根みたいなもので、家を囲うように植えられていて、台風の防風や防砂の役目もあります。
 各家がフクギを植えているので、家の間の通りは並木のような光景になりますが、並木道を作ろうとしたものではありません。
 ただ、フクギで囲まれた家は陽当たりが悪くなっているように思え、古木を大切にしていると家がジメジメしそうな気もします。成長が早い木なのではないのでしょうか。
 立派なフクギ並木と昔ながらの町並みが残されていて、観光客にはとても心引かれる光景なのですが、夕方ということもあってか、蚊が多くてカメラを構える間にもあちこち刺されます(住民の方はどうされているのでしょうか?)。
 我慢できず海辺に逃げ出すと、波打ち際に作られたコンクリートの護岸とフクギ並木の間の空き地に、各家ごとにベンチや夕涼み台が設置されています。
 下写真は広場に設けられたテラスのようなところですが、備瀬の海辺からは伊江島の城山越しに夕日を眺めることができます。
 こんなところで夕日を見ながらビール飲んだらうまいだろうなぁ。
 さぁ、ホテルに帰ってビール飲もっ!

 美ら海水族館の後に、是非いかがでしょうか?