2008/05/12

新しき町に、新しき城──首里、那覇新都心

2008.4.26
【沖縄県】

 園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)


 先日の斎場御嶽(せーふぁーうたき)にあった、世界遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の案内板に、訪れたことのない「園比屋武御嶽」の記述を見つけ、是非行ってみようと調べてみました。
 するとそれは首里城のそれも守礼の門のすぐ先にあるとのこと。これまでまるっきり無視して歩いていました。
 そこには石門があり、御嶽とされる背後にある森への入り口・礼拝所との位置づけとされています。
 国王が城を出る際の旅の安全や、聞得大君(きこえのおおきみ:最高位の神女)の就任時などに最初に礼拝する場所であり、国家の聖地であったそうです。
 その森には、最初の琉球統一王である第一尚氏ゆかりの伊平屋島の神「田の上のソノヒヤブ」を祀ってあるそうです。「ソノヒヤブ」とは? 調べてみましたがちょっと見つかりませんでした。
 ──古いことなので資料が残ってないのかも知れませんが、どうも伊平屋島に関する記述には不確かな事柄が多い気がします。
 まさしく政祭一致の国家体制であったわけで、そのバランスの取り方が難しかったのではないかと思われますが、民衆も自然への畏怖を持っていたこの地であるから、まとめ上げることができたのではないかと思えます。
 国土の狭い単一民族国家のような集団においては、有効だったのではないでしょうか。


 首里城正殿


 ここが修復されてからは2度目(?)と思われますが、いつも「キレイに飾ってもらえて、良かったさー」と思ってしまいます。
 最初に訪れたのが80年代初めで、守礼の門くらいしかなかったとの記憶があります。奧には(工事中だったかの)琉球大学の校舎が残されていたと思います(当時琉球大学は、首里城にあるとの認識でしたから)。
 戦時中の首里城には日本軍の司令部があったため、跡形もなく破壊されその跡地には米国民政府により琉球大学が設立されたので、城跡の遺構も埋め立てられたそうです。
 そんな状態からよくもこんな姿にまで復活したものだと、いつも感心するたびに思い浮かぶ感想です。
 ここは中も素晴らしいのですが遠くからこの城を望むと、山の上に連なる帯状の石垣が、龍が横たわっているかのように見えて、実に見事な光景です。
 まだ修復中の部分が残されているので、それが完了したときには、全貌を見渡せる場所を探して観に行ってみたいと思っています。


 円覚寺跡


 鎌倉の円覚寺を模して1494年に建立されたそうで、戦後まで現存したのは橋だけで、門と池は復元されたそうです。
 何度も来ているのですが今回は違います。
 「禅寺らしく、門の内側に池があってそこに橋が架かっている。うーん、まさに禅寺の様式だ」
 「写真そのままやないけ!」
 「いや、禅寺の門の内側はこのような様式になっているんだよ」
 鎌倉の円覚寺にも、横須賀線の線路を渡ったところに池があって橋が架かっているではありませんか。
 京都で学んだ知識とは、結局それだけなんですがね……

 昔から中国との関係が深い琉球ですから、そんなお寺があってしかるべきと思います。
 それにしても日本の寺を模するとは、日本からの影響があったのかも知れませんが、中国の思想に関して琉球は興味を持って無かったのでは? と思ってしまいます。
 ──確かにわたしも琉球は「ニライカナイ」でいいと思います。
 夏のこの地で坐禅する絵というのは、見ているこちらも汗が出てきそうですし、などと口にしたら「心頭滅却すれば火も亦た涼し、喝!」と警策が振り下ろされそうです……
 第二尚氏(伊是名島出の尚円王の系統)の菩提寺だったそうです。


 弁財天堂

 円覚寺から道を挟んで隣接している円鑑池(えんかんち)に浮かぶ弁財天堂で、お祈りをしている方がいました。
 端の方にいた所在なげなおじさんは、一緒に来たのに祈るのをためらっている子どものような仕草に見えて、可愛いんだか、だらしないんだか、と勝手な想像をしていました。
 ですが、人がザワザワするこういう公共の観光地である場でも祈ることができる精神性って、たくましいと思わずにはいられません。
 そこへ渡る橋があるのですが、観光客は渡ってもみなすぐに戻ってきてしまうようなオーラが漂っていたようです。
 わたしは立ち寄らずに、遠くから横顔を振り返ったのですが、その方は涙をぬぐっていました。
 これもまさしく神様のお告げのひとつではないかと思います。
 人目を気にせず、涙を流しながら祈り続けるその行為は、神様との一体感をより強く感じさせる効果があると共に、心の中にたまっている苦悩を晴らして、欲求不満を解消してくれるのでは、と思います。
 だからやはり、神に仕えるのは女の性に限られているのではないでしょうか。男は、端の方で照れているだけの存在なのですから……
 写真の掲載を迷ったのですが、上記のことに触れたくて掲載させてもらいました。


 玉陵(たまうどぅん)


 ここは、琉球国王のお墓になります──第二尚氏(伊是名島出の尚円王)の系統。
 遺体を自然腐敗(?)させ骨になるまで安置しておく部屋と、その骨を洗骨してから納める部屋があるそうです。
 琉球らしい、死後も現世のそばにあることを実践していたような施設です。
 首里城の隣にあったため、戦争で粉々に破壊されたそうです。
 下写真の石組みの色の違いに、修復の経緯が見て取れると思います。
 と、書きながら写真を眺めていたら、カビの生え方の違いかも、と思えてきました……



 金城町

 この石畳は国王の別邸である識名園への道だそうで、主要道として整備された「真珠道(まだまみち:真珠のように美しい道)」の一部になるそうです。
 この石畳は、階段にした方がいいのではと思えるようなかなりの急斜面に築かれていて、所々に斜面からの湧水や樋川(ふぃじゃー:岩盤内の水脈から樋(とい)で水を引いている)があり、そこが水場となり御嶽の場となっています。
 やはりこの日は祈りを捧げるお日柄らしく、上写真の隣にある金城大樋川(かなぐすくうふぃじゃー)の水場でも数人がお祈りしていました(ここの写真は遠慮しました)。

 NHKドラマ「ちゅらさん」で使われた那覇の家が近くにありますが、続編はもうやらないのだろうか?
 平良とみさん(おばあ)が健在なうちに1本でも多く見たいと願っておるのですが……


 上写真は壁に埋め込まれた「石敢當(いしがんどう:道の突き当たりに設置される魔よけ)」。
 ここは文字が判明できませんが、必ずといって石敢當の文字が描かれています(京都にもあります)。
 魔物は文字を読んで普通の石と区別するのでしょうか?
 それとも文字の読める人間に対してのまじないなのでしょうか?


 内金城御嶽(うちかねぐすくうたき)

 首里城のそばにありながら戦禍を免れた「アカギ」の大木群と、その根元にたたずむ御嶽は、それだけで貴重な存在として敬われたことと思われます。
 アカギの大木群の推定樹齢は200〜300年とのことなので、もし戦争で焼かれることがなければ、この一帯の森はどんな空気をたたえていたのだろうか? 首里にもキジムナーがいたかも知れないのでは、との想像をしていました。
 この御嶽は広くないのですが、礼拝所がいくつも設置されてことからすると、かなり重要視された御嶽ではないかと思われます。
 やはり大きな木の下には様々な霊が住み着く、と考えられたであろうことを、このアカギの大木から感じさせられました。
 『となりのトトロ』の鎮守の森の大木のように、まずは子どもがそれをかぎつけるのかも知れません。
 子どもの頃って、蚊がいっぱいいるのを知りながら何でこんな所を半袖短パンで走り回れたんだろうか。
 この歳になると刺されるのがいやで、長居ができませんもの……


 沖縄県立博物館・美術館


 ここは以前、米軍の牧港住宅地区だった土地が返還され、再開発された地域にあたります。
 ゆいレール(モノレール)のおもろまち駅から徒歩10分と言いますから、那覇の市街地の一部と言っていい場所柄です。
 表題の博物館・美術館や、オフィスビル、ショッピングセンター、高校、公園と、那覇市が作りたいと思っていたものを全部作ったのではないか、とも思えるので「那覇新都心」との呼称にもうなずけます。
 旅行に出るとローカルニュースを良く見るようになるので、テレビ関連の話題も増えるのですが、テレビでやっていた「国際通りの空洞化」(観光客向けになってしまい、地元民が来てくれない)の現状が理解できました。
 車社会の沖縄ですから、駐車場完備のショッピングセンターに人が流れるのは当然で(ただし、駐車場の入り口は大渋滞)、特に若い人たちなどはその便利さに慣れてしまうと、もう市場などには足を運ばなくなってしまう傾向にあると思われます。
 石垣島の商店街もそうですが、みんな車で行けるショッピングセンターに流れていってしまい、アーケードのある商店街が寂れる空洞化が起きてしまう、という心配は確かにあると思います。
 わたしの意見ですが、那覇はこれまで狭い場所に集中しすぎていたとも思えるので、少し町の再構築をした方が良いのでは、とも思っています。
 それには、様々な意見があると思いますが、これまでにない大きな外敵(資本)が入りやすくなったことは確かで、それを防ぐことは難しいと思われます。
 それに対抗と言うか、すみ分けることを念頭に町の再構築を進めて「沖縄の銀座」と言われた賑わいを、島民が楽しめる形で取り戻してもらいたいと思っています。

 以前は首里城近くにあった博物館ですが、那覇新都心に移転・新装開店です。
 それにしてもこの造形は見事としか言いようがありません(ほれぼれとします)。
 グスク(城)をモチーフに、小さな四角い窓は石垣を、入り口の空間は石の門をストレートに想起させて、見事です!
 この建物が時を経るにつれ、前出の御嶽や城跡の石垣のような貫禄を備えていってくれたらと思うと、もうワクワクしてきてしまいます。
 本当に、この建物には惚れちゃいました。

 室内中の展示も、これまでの「こんな暗い歴史があったんです」というような被害者意識を払拭して「これからの沖縄を考えるために、歴史を学びましょう」というスタンスが感じられ、とても前向きな明るいビジョンを持っていると感心させられ、もっとゆっくり見ていたいと思わされました。

 ──上記の「被害者意識」などと書いたら怒られるかも知れませんが、以前の博物館の展示物にこそ勉強になったと思われるものが数多くあったと思っています。心ない人が見たら、押し入れから出してきたガラクタに思えるものかも知れませんが、わたしには目にしたことのない米国民政府統治下における紙幣や切手や様々な資料であり、教科書にも書かれていない「誰も教えてくれない事実」に触れることができた貴重な体験だったと思います。それゆえ、もう少し沖縄の事を「自分から知ろうとするべき」ではないか、と考えたのだと思っています。

 そんな明るくない過去の資料が削られてしまったので、悪い言い方ですが「歴史の闇の部分は消し去られていく」ように感じられたのも事実です。
 過去より未来が大切である、との判断をしたのですから、外野がそれをとやかく言うものでもないかと思われますが、また別の機会を作って資料として閲覧できるようにしてもらいたいと思います。是非!


 今回の沖縄については、これで終了です。
 思いがあれこれあるもので、非常に長いレポートになりました(下書きは倍以上あるかと思います)。
 今回の訪問に際しては勉強が足らず、過去の記憶をたよりに書いた面が強いと反省しています。
 またの機会には、もう少し現状に即したことが書けたらと思います。
 最後までお付き合いいただきありがとうございました。

 08年4月 沖縄 【完】

 さて「ganbare ore」で活動を始めねば……

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