2007.03.20
勝連城跡(Map)—沖縄県
天に昇る竜の尻尾のような城壁をしたがえ、その上に、曲線が波打つオーロラが石になったようなデザイン(?)、さらにその上段に城壁がトルコ帽のようにのっかっている。
とてもエレガントなのだが、首里城などに見られる「隅頭石(すみがしらいし)」(城壁の角の石にやわらかいカーブを付けた飾りのようなもので、とてもチャーミング)などの装飾は見られず、機能を重視した結果生まれた形状のようで、断崖に立つ要塞としてあの曲線は必要な構造なのかも知れない。
琉球で城が築かれはじめたころの、古いタイプの築城技術なのではないだろうか。
1500年代半ば、阿麻和利(あまわり)という城主が、首里王朝成立後も最後まで抵抗し、王権奪取を企てた城だそうです。
しかし、その野望果たせず王朝軍に敗れ、この城の繁栄も終焉を迎えたそうです。
その十数年後、先日触れた尚円王(しょうえんおう)が琉球王となったとのこと、これを書くに当たり調べて、初めて知りました……
ちなみに、京では応仁の乱が起こっていたそうです。
そんなワイルドさ、戦うための城、という風貌が引かれる理由なのかも知れません。
だって、トルコ帽の反対側の石垣の下は崖ですからね。手すりもありませんし、ちょっとビビリますよ。
近ごろ、高いところが怖くなってしまって……
下の写真は、城跡から見たその南側に広がる泡瀬(あわせ)の干潟です。
浮かんでいる船は何をやっているかというと、埋め立ての工事をしています。
何もこんなきれいな海を埋め立てることはないのに、と感じてもらいたくて撮りました。
埋め立てはするなとは言えません。ただ、そこにホテルや商業施設を誘致するのだそうですが、それは本当に必要なのだろうか? と思うのです。
埋め立ててホテルやショッピングセンターを作れば、それで第二の北谷(ちゃたん)(基地用地返還後に商業施設を建設して成功している町)が生まれて、成功するのだろうか?
沖縄には、失敗に終わったホテルだったとおぼしき廃墟や、開発途中で頓挫したと思えるような、なれの果ての荒れ地が散在しています。
本土でも、開発に自治体がお金をつぎ込んで、結局資金回収できなかった例は、思い出せないほどたくさんあります。
例に出されても仕方のない「夕張のようにはならない」という根拠があればいいのですが……
やるのならば、成功して地元の人々がよろこんでもらえるようになって欲しい、と願うばかりです。
でもやはりその前に、もっと有効な利用法があるような気がしてならないのです……
これで、今回の沖縄編は終了になります。
これを書きながら自分でも驚いたことは、久しぶりに行ったせいもありますが、書きたいことが次から次へと浮かんできてしまい、整理するのに苦労したにもかかわらず、それでも文章が長くなってしまったことに「こんなに思い入れ強かったんだ」と自覚したことです。
そんなに好きなら、まずは「もっと行かなくちゃ!」 でなきゃこの先は書けない、と認識しました。
さあ、次なるアプローチ「沖縄とどうつきあっていくのか」考え始めないと、という気持ちです。
Okinawaは See you !
です。
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